※このインタビューは、フリーペーパー「pontab」34号(2019年4月発行)に掲載された内容をもとに、紙幅の制約上実際の紙面では割愛した部分も収録した完全版として再構成したものです。

あのM-1ファイナリスト、芸人引退後の次なる挑戦。
ご当地アイドルの仕掛け人に?(3/4ページ)

▲ハリガネロック時代の話が佳境に差し掛かると、時折難しそうな表情を見せる場面もあった
軋轢……ハリガネロックの終焉
かつての相方であったユウキロックが、“ハリガネロック解散までを赤裸々に綴った迷走録”として2016年に上梓した『芸人迷子』。その中には、このような記述がある。
俺にやれることはもうこれしか残されていないと思った。それは「動かない」ということ。「何もやらない」ということ。そして、相方からの呼びかけをひたすら待ち続ける。動きを止めた俺を見て「ハリガネロック」再興へと動き出す相方を待つ。
――『芸人迷子』44頁より
――実際のところ、その真相は?
おおうえ その頃はコンビ仲としては最悪で、仕事自体も減ってきてました。漫才をする回数も減っていたので、漫才中に「何やこの間は」と思う瞬間がお互いに何度もあった。けど、舞台を降りてからそれを話すことはありませんでした。
ずっと同じネタしかしていない事はお客さんにはバレていたし、たまにウケたら「良かった、今日のお客さんにはネタがバレてなかった」という風に考えてしまうのが辛かった。そんな時に相方と喋るのもイヤでしたし、俺から何かやろうと切り出すのもイヤでしたね。
お互いにピンの仕事も増えていたので【※4】、「相方はピンの仕事の方が楽しいんやろな」と思ってたし、漫才に愛着があるようには見えなかった。向こうも「話しかけるな」というオーラを出していたので、それならこっちも好きな芸人と仕事する方が楽しいわ、と思ってまた疎遠になる。けど、漫才はずっとやりたかったですね。
コンビとしての意思疎通を欠いた状態が長く中、2011年にM-1に代わる大会「THE MANZAI」の開催が決定。出場資格に芸歴は問われない大会ということもあり、大上はユウキロックに出場を切り出した。
おおうえ 俺は漫才をやりたかったし、いい機会だと思ったので自分から切り出しました。けど、相方からは漫才への愛というか、漫才をやりたい感じが伝わらなくて「イヤイヤ俺に付き合って出てもらったんだ」と思いました。結果は認定漫才師(上位50組)にも入れなかったので、「来年も出よう」とは言えなかったですね。
しかし、2013年に今度はユウキロックの方から大上にTHE MANZAIへの出場を切り出す。しかし、「決勝に行けなければ解散する」という条件での出場だった。
「実はな、俺、この3月31日まるまる芸歴20年を終えるその日に解散するつもりやってん。俺はな、お前からの呼びかけをずっと待っててん。けどなかった。けど俺は漫才が好きや。だから漫才だけにはちゃんとけじめをつけて辞めたい。」
――『芸人迷子』119頁より
――「決勝に行けなければ解散する」という宣言をユウキロックさんから聞いた時は?
おおうえ 「ついに来たか」と思いましたが、どこかで覚悟はしてましたね。
コンビとしては既に機能してなかったけど、ハリガネロックを続けるために頑張ろうと何年かぶりに二人で腹を割って喋りました。新ネタも「俺が考えるから」と相方が言ってくれて「ネタが出来たら二人で合わせていこう」と言ってたんですが、待てど暮らせど連絡が来なかった。予選の日は迫っているのに一向に連絡が無いので「一緒にネタ作るで」という連絡はしたのですが、「ちょっと待ってくれ」というのが2回ぐらい続きました。
ようやく台本が出来上がったと相方から連絡があったので、ワクワクしながら打ち合わせ場所に行ったら、相方が「途中までのもあるけど」って言いながら台本を5本出してきました。俺も「ええよ、ここから二人で作っていこう。ここから始まるから」と言って読んだんですが……。そこでまず1回ガックリ来てるんですけど、「こんだけ時間かけてこれか……」というのが正直な感想でした。一体何が違うのかなとは思ったんですが、僕は昔みたいな、二人がクタクタになるような、バーッとかけあう漫才を期待していたけれど、台本は僕が思ってたものと違うもので、そこから何とか漫才を作って舞台でかけても手応えが無かった。
打ち合わせでも「この漫才のここのボケが面白いから、こっちの漫才で使おうや」「え、設定が全然ちゃうけど?」みたいなかみ合わないやりとりが続きました。ある日、「俺が漫才ジャンキーなったって設定はどう?設定とは関係なく好きなボケだけやっていくねん」と言われて。「その設定は伝わるか?」と思いながら、時間もないんで合わせていくんですけど、訳の分からん設定だから舞台でもそんなにウケないんです。
この設定に手応えが無いのは相方は分かってたと思うんですが、そのまま1回戦の当日になりました。受かりはしましたけど、所詮は付け焼刃のネタでしたし、こんなもん名前で通ってるだけやと思ってました。予選会場で出番待ちの時、自分たちの前に出たコンビが手をつないで漫才をしていたんですが、舞台袖で急に相方に「手をつないで出ようや」と言われまして。「えっ?」とは思いましたけど、時間が無いから言うとおりに出ていってツッコんだら、その瞬間はウケました。けど、ネタに入ったらウケないんです。終わってから「どこの誰のボケをかぶせてんねん」とガックリしましたね。相方も必死なのは分かってましたけど、そのボケをした事への自己嫌悪が残りました。
それから2回戦までに連日ネタ合わせはしてたんですけど、相方が持ってきた台本の中に2005年のM-1でブラックマヨネーズがやってたネタと同じ形【※5】のものがあって。「これ、ブラマヨやんな?」と思って、相方の説明を聞いてもやっぱり一緒なんです。さすがに「これは無理やわ」と言いました。僕は「今までのハリガネロックみたいなネタがやりたい。古いネタでもええからやろう」と言ったんです。その時の相方は「お前マジか……」という顔はしてましたね。
俺は新たな内容を相方に説明した。すると相方の表情が曇った。「えっ?」(中略)相方が発した言葉は俺の予想をはるかに超えていた。相方は言いづらそうに呟いた。「今までやってきたネタでいいんじゃないか…」
――『芸人迷子』133頁より
何か新しい形を見出さねば、今までの漫才では勝ち残れないと必死に“違う形"を模索するユウキロックと、今までやってきたハリガネ漫才こそが最強だと信じる大上。二人の軋轢はここで決定的になる。
おおうえ 結局、2回戦ではそれまで舞台でやり続けてたネタをしたんですが、すべりましたね。ハリガネロックでは3本の指に入るぐらいすべりました。
――2回戦で敗退して解散が決まってから、お二人で話したことは?
おおうえ ……無いですね。LINEだけでした。
2014年2月、3月22日のルミネtheよしもと(東京・新宿)公演をもっての解散が発表され、ハリガネロックの歴史にピリオドが打たれた。歴代のM-1ファイナリストの中でも、解散に至った初めてのコンビ【※6】ということもあり、解散発表は多くのお笑いファンに衝撃を与えた。その一報が出たのち、3月3日にNGKで開催される「ひな祭りグランド花月」【※7】への出演が決定。この公演が、大阪での最後の舞台となった。
――ハリガネロックさんをゲストで呼んだNGKの当時の支配人は、かつて2丁目劇場で漫才禁止令【※8】を出した新田敦生さんですね。
おおうえ そうです。2丁目劇場で漫才を禁止したのも、当時は舞台に出てきてネタをせずに「何しゃべろかな?」みたいな感じでただ喋ってるだけの芸人もいましたし、実際に客数も減ってたから禁止したんでしょうけどね。新田さん、舞台袖まで来てたなぁ(笑)。昔からお世話になってた今いくよ・くるよ師匠にもお会い出来ましたし、最後にNGKで漫才が出来たので、本当にありがたかったですね。
――そして、3月22日を迎えるわけですが、解散当日を迎えた心境は?
おおうえ 穏やかな気持ちでした。逆に周りがソワソワしてましたが、その日は大阪から中田カウス・ボタン師匠も出演されていて、師匠に解散の報告に行くのは気が重かったです(苦笑)。
――最後の漫才を終えた時の感想は?
おおうえ 「すべらなくてよかった」という安心感はありましたけど、「芸人人生を振り返って」みたいな気持ちにはならなかったです。
【注釈一覧】
※4 お互いにピンの仕事も増えていた……ユウキロックは「アメトーーク!!」に家電芸人として出演したほか、節約術をまとめた本を出版。かたや大上も、パパ芸人として育児イベントへの出演が増えていた。
※5 ブラックマヨネーズがやってたネタと同じ形……ユウキロックは「芸人迷子」の中でも、ブラックマヨネーズのM-1ネタが自分にとって漫才の理想形であると記述している。
※6 歴代のM-1ファイナリストの中でも、解散に至った初めてのコンビ……2014年当時。なお、現在まで含めてもその後解散に至ったコンビはハリガネロックの他、りあるキッズ(第3回ファイナリスト・最終5位。2014年8月解散)とカナリア(第10回ファイナリスト・最終9位。2018年3月解散)の3組のみで、最終決戦まで残ったコンビに限定するとハリガネロックが今なお唯一となる(紙面掲載時、「現在まで解散に至ったコンビはハリガネロックとりあるキッズの2組のみ」と記載しておりました。訂正いたします)。
※7 ひな祭りグランド花月……今いくよ・くるよをはじめ、尼神インターゆりやんレトリィバァなど女性芸人が出演者の中心となったイベント。詳細はこちら
※8 漫才禁止令……1997年、当時2丁目劇場の支配人だった新田敦生が、出演するすべての芸人に漫才の禁止を通達。これを機に、中川家や海原やすよ・ともこは2丁目劇場を卒業。ハリガネロックも2丁目劇場ではコントをすることになった。この頃に同劇場で行われた漫才ライブを収録したCD「2」には、ユウキロックの積年の思いが漫才の冒頭に爆発した様子が収められている。
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