※このインタビューは、フリーペーパー「pontab」34号(2019年4月発行)に掲載された内容をもとに、紙幅の制約上実際の紙面では割愛した部分も収録した完全版として再構成したものです。

あのM-1ファイナリスト、芸人引退後の次なる挑戦。
ご当地アイドルの仕掛け人に?(1/4ページ)

6月公開の映画『手のひらに込めて』で、主人公三姉妹の父親という重要な役どころを演じる、元『ハリガネロック』のツッコミ・おおうえくにひろさん。
今は無き「心斎橋筋2丁目劇場」での鮮烈なデビューから第1回M-1グランプリ準優勝と全国区での活躍、コンビ解散と芸人引退宣言を経ての近況までを語った。
彼からの視点で振り返る“もうひとつのハリガネロック史”も交えて──。
(インタビュー・讃岐邦好

▲笑顔でインタビューに応えるおおうえさん(布施「A-kukan」にて)
おおうえくにひろ(Twitter : @ooooueeee)/1973年生まれ、奈良県葛城市出身。高校卒業後、吉本総合芸能学院(NSC)大阪11期生となり、1995年に同期の松口祐樹(ユウキロック)とハリガネロックを結成。2001年の第1回「M-1グランプリ」準優勝。2014年の解散後はピン芸人として活動の後、2016年に芸人を引退。現在は関西を中心にMCタレントなどの活動を行っている。
――まず、現在のおおうえさんはどのようなお仕事をされているのでしょうか?
おおうえ 現在は東大阪にある芸能事務所「サクラエンターテイメント」に所属して、イベントMCや公演の企画・構成をしたり、アイドルを引率して会場に行き物販やチェキの撮影など運営の仕事もしています。
――お仕事をされてる時に「ハリガネロックの大上さんですよね?」と声をかけられる事もあるのでは?
おおうえ そうですね。うちのアイドルは若いので当時の僕を知りませんが、ファンの方や会場のスタッフの人には声をかけられたりします。
重圧……ハリガネロック結成
おおうえさんは吉本総合芸能学院(NSC)の大阪11期生として吉本に入り、まずは高校の同級生だった堂土貴(現・ルート33)と“あっぱれ団"というコンビを結成。「心斎橋筋2丁目劇場」を拠点に活動していたが、1995年にコンビを解散し松口祐樹(現・ユウキロック)とハリガネロックを結成する。
――ユウキロックさんとコンビを組まれたきっかけは?
おおうえ 元々仲が良かったんですよ。その頃は相方(ユウキロック)や静岡茶っぱ(元G☆MENS)、長岡(元みのなが)とかとよく遊んでいたのですが、堂土とのコンビを続けるべきか考えていた時期に相方が先にコンビ(松口VS小林)を解散して「お前とやりたいんやけど、考えてくれん?」と言われたので、すぐに解散してハリガネロックを組んだんです。
ハリガネロックは結成2年目の1997年に「ABCお笑い新人グランプリ」を優勝、2丁目劇場でもレギュラー出演者として定着するなど、関西発の若手人気芸人として頭角を現す。
――その頃の心境は?
おおうえ 堂土と組んでたコンビの時は他の同期から遅れて2丁目にレギュラー入りしたんですが、相方は「松口VS小林」で既にテレビにも出ていたので、「あの小林(現・ケンドーコバヤシ)とのコンビを解消してまで組んだ相方」と思われるプレッシャーはありました。しかも、一番下のオーディションから再出発ではなく、いきなりレギュラーとして出演することになったので、ライブのMCもしなければならなかった。だから、結成してからの一年間は一番漫才の稽古をしましたし、全てに必死でしたね。
――当時の2丁目劇場のレギュラーメンバーには中川家さんや陣内智則さん、たむらけんじさん(当時LaLaLa)、ハリウッドザコシショウさん(当時G☆MENS)といった同期の方も沢山おられました。
おおうえ 同期の中心で仕切るのは怖かったですが、さらに上に上がっていきたいという気持ちはありましたね。
――当時はユウキロックさんから宿題を出されていたとか。
おおうえ 毎日起こった出来事をノートに書いて提出してましたよ。「こんな事して何になんねん」と思いながらやってましたが(笑)。結成からの一、二年はテレビ出演や賞レースなど毎日新しいことを経験していて、神経はすり減ったけど鍛えられました。「ノックは無用!」に出演した時には、生放送で西川のりお師匠に怒られましたが、それ以降は劇場でも大変お世話になりましたね。
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