※このインタビューは、フリーペーパー「pontab」34号(2019年4月発行)に掲載された内容をもとに、紙幅の制約上実際の紙面では割愛した部分も収録した完全版として再構成したものです。

あのM-1ファイナリスト、芸人引退後の次なる挑戦。
ご当地アイドルの仕掛け人に?(2/4ページ)

▲ハリガネロックがかつてMBSラジオで担当していた番組「ハリガネ党ロック派宣言」のヘビーリスナーだったという、インタビュアーの讃岐。彼がこの日のために持参した同番組の会員証を見て「うわー、懐かしいなあ!」と声を上げるおおうえさん
翻弄……M-1グランプリとの激闘史
ユウキロックが畳みかける尖ったボケと、大上邦博の鋭いツッコミが織りなすハリガネ漫才は各局の賞レースを総なめに。なんばグランド花月(NGK)での2デイズライブも満員にするなど人気・実力ともに関西では無敵だった彼らは、その勢いのまま、2001年の第1回「M-1グランプリ」へ満を持して出場した。
おおうえ 今でこそM-1といえば芸人みんなが出る大会ですが、最初は「何やこれ?」「1千万? 全国ネットでネタが放送される? どうせウソやろ?」と芸人の間でも言ってました。でも漫才の日本一を決めるのなら、出ないわけにはいかないので予選に参加したら、トントン拍子で決勝まで進んで、東京で記者会見を開く頃にはようやく「凄い事になってきたな」と実感しました。
放送当日は朝から会場に行ってリハーサルをして、順番決めのくじ引きで10番(一番最後の出番)を引きました。中川家は1番を引いたので「これはいけるかも」と思ってましたが、そこから本番までの待ち時間が長い。楽屋でもフワフワした会話しかできないし、タバコの量も増えていく。(中川家の)剛は横でオエッとかえずいてるし。仮眠しようにも緊張で全然寝られない。あの待ち時間は一番つらかったです。
――本番の時のことは覚えてますか?
おおうえ センターマイクに立った時にはもう落ち着いてましたね。僕の立ち位置から審査員席が見えてましたが、「松本(人志)さんと(島田)紳助さんは笑ってないな。けど、客席は受けているから大丈夫やろ」と周りが見えるぐらいには1本目は余裕がありました。得点発表の時にも緊張しているフリはしてたけど、心の中では「最終決戦にはいける」と確信してました。
――そして、中川家さんとの最終決戦に進みました。
おおうえ 中川家の2本目がそこまでウケてなかったから「これは優勝できる」と思ったんですが、そこで欲が出てしまったのか、2本目の漫才ではツカミがそんなにウケなかった。テンポも速くなるし、お互いセリフも飛ばしてしまい、とにかく焦ってました。
――のちに放送されたM-1グランプリを振り返る番組では、ネタ中にユウキロックさんが薬物を打つポーズ【※1】をした事が敗因のように言われましたが。
おおうえ そういうポーズをする事については事前にちゃんと話し合っていましたし、特に関係ないと思いますね。単純に2本目の出来が良くなかったんです。結果が出た瞬間も「あかんかったか」と納得はしました。
最終決戦では審査員7人中6人の票を得た中川家が優勝し、ハリガネロックは準優勝に終わった。
――最終決戦では、西川きよし師匠だけが1票を入れてました。
おおうえ きよし師匠には「僕は入れたんやで」って、吉本をやめる時まで言われましたからね。まだ言うかと(笑)。
――2002年には再びM-1に挑戦され、ファイナリストにはなったものの最終結果は5位でした。
おおうえ 賞レースは一発で獲らないといけないと思っていたので、次は絶対に優勝する気でいたのですが、いいネタが出来なかった。決勝には行くだろうけど、優勝できるかと言われると……という出来でした。
M-1の決勝で披露できるネタを作り上げる事は並大抵の努力ではできない。それはどんな漫才師にもあてはまることである。多くの若手漫才師がぶつかる“M-1の厚い壁”にハリガネロックも苦しめられた。
その一方で、2002年4月には「爆笑オンエアバトル」第4回チャンピオン大会で優勝、2003年には渋谷公会堂で2千人規模の単独ライブ「ハリガネロックin渋公爆発ロック」【※2】を開催するなど、全国区での人気を着実に集めていた。
――なぜ渋谷公会堂でライブを?
おおうえ 2003年にM-1に出ないことは相方と決めていたので、代わりに何をしようかという事になりました。相方はコンビのプロデュースが上手かったので、当時の芸人がやってないような事を色々やりましたが、そのひとつがこのライブです。
M-1への不参加を心に決めて活動の幅を広げていた彼ら。だが、あるテレビ番組で先輩芸人に参加を勧められ、2003年のM-1に出場することになった。
おおうえ 正直、イヤでしたね。賞レースは何度も出るものではないし、出たら優勝するしかないんですが、優勝できるようなネタが作れるのかなという不安もありましたから。
結果、2003年は準決勝で敗退となる。
2004年は不参加。そして、結成10年目のラストイヤー【※3】となった2005年、ハリガネロックはそれまでの役割を交代。ユウキロックがツッコミ役に回り、大上はボケ役に転じることになった。
――私が「どうしたハリガネロック?」と衝撃を受けたのが、2005年のM-1でのボケ・ツッコミ変更なのですが。一体何があったんですか?
おおうえ ラストイヤーなので、今までとやり方を変えなきゃ決勝にいけないとという話になって、ああなったんですよね。でも、俺がボケ役をするには見た目から変えんと違和感があると思ったので、衣装もオーバーオールを着ましたし、ボケ・ツッコミを変更した新ネタも作りました。当時はトータルテンボスなどツッコミで笑いを取る形の漫才が出始めた時期なので、相方はそれを狙ったんでしょう。でも、これは絶対違うやろとは思ってました。
――結果としては三回戦落ちになりました。
おおうえ 「やっぱりか」とは思いました。こんなことで決勝に行けるとは夢にも思ってなかったし、相方には無理やと何べんも言いましたが、相方も追い込まれてて、「他に何かやり方があるのか?」と聞いてくる。俺が「元のままでやろう」と返しても、相方は「それではあかん。手を変え品を変えやらんと」と言うので、それ以上は言えなかったです。相方も「無理やろな」とは心の中で思ってたと思いますけど。
その後、追加合格で準決勝に進んだハリガネロックは、ボケとツッコミを元に戻した従来通りの漫才で挑んだ。
おおうえ 準決勝の舞台に出た時、お客さんもホッとしたように感じたんですよ。「やっと戻してくれたか」と(笑)。俺ものびのびやれましたし、実際にその舞台ではウケましたからね。
しかし決勝進出は叶わず、敗者復活も敗退。ハリガネロックのM-1はここで終了した。
2年後の2007年には『MBS新世代漫才アワード』に出場するも結果は3位。それ以降、彼らの間にすれ違いが起き始める。
【注釈一覧】
※1 薬物を打つポーズ……当該部分は、後に発売されたDVDではカットされている。
※2 ハリガネロック in 渋公爆発ロック……当日の模様はのちにDVDとして発売された。ハリガネロックの単独ライブを収めた唯一の作品となる。
※3 結成10年目のラストイヤー……ハリガネロックが挑戦した当時のM-1グランプリには、出場資格に「結成もしくは現コンビ名での活動開始から満10年以内のグループ」という制限があった(現在は「満15年以内」に延長)。
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